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美学という学び

西洋哲学の美学という学問

美のイデア

美のイデアとは、見た目の肉体の美しさよりも、魂の美しさが、さらに行為の美しさ、知識認識の美しさが上位にあり、価値があるものであると言うこと。その上位へと至った最後に求められるのが、永遠に存在し、生成消滅も増大現象もせず、全ての美しいものはそれを分け持っているために美しくあるもの、そういった「美そのものだ」とプラトンによって語られた。そしてただ頭の中にある、考えの中にあるだけのアイディア、観念ではなく、イデア界に真実に絶対的に永遠に存在するもの。

「美そのもの=美のイデア」私たちは美しい人、見た目、肉体を持った人に惹かれる。でもそれは出発点、階段で言うなら第一段。私たちはその肉体の美しさから、美しい肉体全てに、肉体の普遍的な美しさに到り、さらに肉体よりも魂の美を求め、そして人の美しい行為、それを定める掟、そうしてそれらを支える広く豊かな知識へと昇る。昇っていく力を私たち人間は備えているというソクラテスの考える美のイデア。

詩学

詩 (文芸) の本質,形式,内容,種類,創作技法などについての理論的考察をいう。歴史的にはアリストテレスの『詩学』 に始る。『詩学』はルネサンスに再発見され,当時すでに詩学の古典として認められていたホラチウスの『詩論』 Ars poeticaとともに,詩学の権威として認められるにいたり,その研究が進むにつれて影響範囲は広まって,単に詩学の領域だけにとどまらず広く西洋の芸術論一般に大きな影響を与えた。

人体の比例

美術作品における人体の理想的基準を定める人体の各部分の比例率。単なる数的比例の算出では古代エジプトにその先例がみられるが,頭身法 (全身長を頭上から首までの長さで割る数値) の理想的比例率を最初に規定したのはギリシアの彫刻家ポリュクレイトス、その比例に基づいて有名な『ドリュフォロス (槍をかつぐ青年) 』の像を制作した。彼よりほぼ1世紀あとの彫刻家リュシッポスはこの比例を修正し,最も美しい人体の比例が8頭身であることを明らかにした。ルネサンス時代は解剖学が盛んになり,レオナルド・ダ・ビンチや A.デューラーらにより実測的,有機的な比例値が明らかにされた。

美術作品における人体の理想的基準を定める人体の各部分の比例率。単なる数的比例の算出では古代エジプトにその先例がみられるが,頭身法 (全身長を頭上から首までの長さで割る数値) の理想的比例率を最初に規定したのはギリシアの彫刻家ポリュクレイトスである。彼は前膊の長さを基準として身体の各部の比例値を算出,青年の理想的なプロポーションを割出し,それを『カノン』と題する著作に示し,その比例に基づいて有名な『ドリュフォロス (槍をかつぐ青年) 』の像を制作したと伝えられる。これによれば人体の理想的な比例は頭部が全身長の7分の1を占める。しかし彼よりほぼ1世紀あとの彫刻家リュシッポスはこの比例を修正し,最も美しい人体の比例が8頭身であることを明らかにした。ローマ時代のウィトルウィウスも人体の比例値について簡単な記述を残している。ルネサンス時代は解剖学が盛んになり,レオナルド・ダ・ビンチや A.デューラーらにより実測的,有機的な比例値が明らかにされた。

ダ・ヴィンチのウィトルウィウス的人体図と黄金比
黄金比 golden ratio とは, r = (1 + 51/2) / 2 = 1.6180··· あるいは (1 / r) = (51/2 − 1) / 2 = 0.6180··· という数値で表される比のことです。

レオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo da Vinci が描いたとされる 「」“Vitruvian man” の中の「円の半径」と「正方形の辺の長さ」の比が黄金比であると述べられている例が少なくありません。 2003 年に出版されたダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」という小説で取り上げられて有名になりました。

レオナルド・ダ・ビンチが人体を考察して描いた『ウィトルウィウス的人体図』(1509頃)

 

 

 

 

 

自然美

自然の所与に認められる美。美的なるものは「自然美」と「芸術美」に大別される。通俗の用語法では非人間的対象の美,たとえば風景美などをさすが,現実の生において経験される美を総称するのが普通である。

自然美に対する人工的,芸術的な美。一般的に自然の所与のなかに現れる美,たとえば風景美などに対して,芸術がその表現を意図し,また実現した美をいかに関連づけ,あるいは区別するかは,古くから美学,芸術学の中心課題の一つであった。たとえば自然美と芸術美をともに美的価値とみるカント,芸術の表現性あるいは意図性を重視して,自然美から芸術美を区別し,美的なものから芸術的なものを区別する M.デッソアール,自然美もまた芸術美によってのみ発見されるとするロマン派的立場から芸術美の一元性をとる F.シェリングなどがあげられる。

 

感性的認識論

感性的認識論とは、私たちがこの世界にあって、この世界の様々な対象、様々な有り様を感覚的に知る、とらえる、と言うことです。見たり触ったり臭いを嗅いだり音を聞いたり口に入れてみたり、視覚・触覚・嗅覚・聴覚・味覚と言った感覚知覚で、私たちは世界のあれこれをとらえ、知ろうとしている。ただ私たちの感覚は私個人のそれであって、他の人とは共有することは出来ない。そういった感覚を確実で普遍的な、万人に共通する認識を与えてくれるのが知性・理性。普遍性を持たない、間違いがある感覚よりも知性・理性を優れた認識能力とする考えは西洋哲学の世界では珍しことではない。

 

趣味判断

「趣味判断」とは、あるものを「美しい」と判定する判断のことである。この判断力は、特に美しいものの判定の能力として「美感的判断」とも呼ばれる。趣味とはヨーロッパでは元来,物の味を意味し,さらにこの意味が拡張され,快,不快を含む全感覚領域を含む趣向一般に及んだ。 17世紀後半から「趣味」の語は,これら本来の意味から,より特殊的,精神的,文化的に昇華され,一般に悟性によらずして直覚的に価値と非価値を弁別する能力とされた。

「趣味判断」とは、あるものを「美しい」と判定する判断のことである。この判断力は、特に美しいものの判定の能力として「美感的判断」(ästhetisches Urteil)とも呼ばれる。「趣味判断」の特徴として、次の2つが挙げられる。

・主観的な要素が強い:趣味判断は、個人の好みや感性によって左右されるため、同じものでも人によって判断が異なることがある。

・理性的な要素も含まれる:趣味判断は、ある程度の客観性や理性的な判断が必要である。美しいと感じるためには、対象の特徴や背景などを分析し、考えることが必要である。

 

上の2点からから分かるように、趣味判断は主観的な要素が強い一方で、ある程度の理性的な判断を要する。つまり、その価値を判断するために、ある程度の共通の美的基準が必要であるという点には留意する必要はある。

 

主観的な要素があるという側面から考えると、「趣味判断」は個人が持つ利害や傾向性、そして道徳的な観点に基づいていない。つまり、「趣味判断」は主観的な感性に基づき対象物を美しいと判断する力であり、個人の価値観や社会的な判断基準に左右されない。

「趣味判断」の2つ目の特徴について述べる。「趣味判断」は、個人が自分自身の中で見出した主観的な条件を、自分以外の人間全員に普遍的な賛同を期待するとされる。カントの説明に即していえば、以下のような例が考えらる。

 

例えば、誰かが「このワインはおいしい」と言った場合、他の人がその人に「それはあなたにとってこのワインがおいしいという意味でしょうね」と注意することがあるだろう。しかし、「このワインはおいしい」と言った人は、このことについてまったく不満を抱かないだろう。それは、快適なものや美しいものについては、個人の趣味や好みが重要な判断基準となるからである。

 

しかし、美についての判断は快適なものと事情がまったく異なる。例えば、誰かが「大阪城は私にとって美しい」と言ったとき、それは笑うべきであるとカントは主張するだろう。

 

なぜなら、カントの主張によれば、もしもあるものが単にある人だけを満足させることしかできなければ、それを「美しい」と言ってはいけないからである。誰かがあるものを「美しい」と言うとき、その人は、自分以外の人たちにも同じ満足を期待しそれを要求する。

 

このように、カントは「趣味判断」によって美しいものを自分以外の人間にも要求することができる、と考える。

 

以上、カントは、「趣味判断」をあるものを「美しい」と判定する判断のことである、と定義した。そして、「趣味判断」には主観的な判断である一方で、あらゆる主観に普遍的妥当性を要求するという特徴を持つことが分かった。

 

カントは、「趣味判断」を普遍妥当性を要求するものとして特徴づける。その根拠として、カントは「共通感官」という概念を挙げる。次に「共通感官」について検討してみよう。【続く】

 

 

崇高

美的範疇の一つ。本来高さを意味し,偽ロンギノスの『崇高論』 (1世紀頃) は崇高を一つの価値とみ,魂を高める特質を指摘している。近世では,E.バークは美と崇高をそれぞれ人間の本能のうち社交性と自己保存本能に関係づけ,自分が安全な場合に,苦痛や危険の観念がもたらす快感を崇高とした。 I.カントでは,美が対象の形式にかかわるのに対し,崇高の対象は没形式的で,美が悟性に関係づけられる質の表象であるのに対し,崇高は理性に関係づけられる量の表象であるとした。崇高の快は一時的にせきとめられた生命力がほとばしり出るもので,消極的快を含んでいる。彼は崇高の対象をまず自然としたが,これを2つに分類し,比較を絶して大なる対象によるものを数学的崇高とし,自然が恐るべき威力的対象として現れるとき,これを力学的崇高と呼んだ。自由と必然性の無意識的調和に美をみた F.シラーは,必然性からの自由の意識的超越を崇高とし,それはわれわれの対象把捉力の無力感からとともに,いかなる限界をもこえるわれわれの想像力の優勢からも生じるとし,さらにそれは悲しみと喜びの混合感情であるとした。ヘーゲルでは崇高は無限を表象しようとする試みの結果である。近くは J.フォルケルトが崇高を破壊的なものと快適なものに大別した。また,美的範疇論としては,これを悲壮 (悲劇的) と同一視する立場もある。なお対象領域では,倫理的,宗教的な崇高も存在する。

もののあわれ

平安時代の文学,生活の美的理念。本来は,もの (対象) によって人の心に呼起されるしみじみとした感動を意味する。人生の不如意に基づく哀感を基調とし,感情主体によって人事,自然界の事象が共感されるとき,そこに対象と主体の調和が意識され,「もののあわれ」が成立する。本居宣長は『源氏物語』の本意が「もののあわれ」を知らしめることにあるとして,仏教的,儒教的立場からする倫理的評価を批判したが,さらに進んで,「もののあわれ」を日本文学一般の理念であると主張した。日本文学にあっては,しみじみとした調和的な情趣を優美なものとして指向するものが多く,宣長説は一面の妥当性をもつ。

 

『美学をめぐる思考のレッスン』(小林留美/京都造形芸術大学・東北芸術工科大学出版局藝術学舎/2019年)

『美術史入門』(X.バラル・イ・アルテ/白水社クセジュ文庫/1999年)

『芸術哲学入門』(J.ラコスト/白水社クセジュ文庫/2002年)

『芸術理論古典文献アンソロジー 東洋篇』(宇佐美文理、青木孝夫編/京都造形芸術大学・東北芸術工科大学出版局藝術学舎/2014年)

『芸術理論古典文献アンソロジー 西洋篇』(加藤哲弘編/京都造形芸術大学・東北芸術工科大学出版局藝術学舎/2014年)

『芸術環境を育てるために』(松井利夫、上村博編/京都芸術大学・東北芸術工科大学出版局藝術学舎/2021年)
小林留美『美学をめぐる思考のレッスン』藝術学舎出版、2019