この作品は有名な画家の絵です。誰かな?
描かれた年代順を考えて見よう。
パブロ・ピカソとは?
パブロ・ピカソ(1881年10月25日−1973年4月8日)は、スペインのマラガ出身の画家。絵画だけでなく彫刻や版画、陶芸、舞台芸術、詩人としてなど幅広く活動。「キュビスム」という新しい美術表現を創造し、20世紀最大の画家と評されている。代表作は《アヴィニョンの娘たち》《ゲルニカ》《泣く女》など。
ピカソが残した作品総数
これまでに制作した作品は1万3500点の油絵と素描、10万点の版画やエッチング(銅版画)、3万4000点の挿絵、300点の彫刻や陶器など、その数は約15万点。世界で最も多作な美術家であるとギネスブックに認定されている。
時代別の作風年表と作品一覧
美術学校の教師だった父親からドローイングや素描などの美術教育を受けていたピカソは、幼少期からその才能を発揮。母親によるとピカソが初めて話した言葉は「ピス」(スペイン語で“鉛筆”)だったとか。
幼い頃から絵を描き始め、キャリア初期から晩年まで、ピカソは作風をひとつに絞ることをしなかった。その都度関係を持った女性たちから影響を受け、彼女たちをモデルにした肖像画を描くこともしていた。ここではピカソの時代別の作風とその時代の代表作品を紹介していく。
▍1897年:初期《科学と慈愛》
「生と死」をテーマに制作した油彩画《科学と慈愛》をマドリードの全国美術展に出品し、入賞を果たす。その画力の高さに注目を浴び、審査員を驚かせた。本作は、ピカソのキャリア初期の代表作として挙げられる作品。
《科学と慈愛》(1897年)
画像引用:http://art-picasso.com/
▍1901年〜1904年:「青の時代」
1900年に友人たちと初めて、芸術の都・パリを訪れたピカソは翌年に移住。しかし、親友カサヘマスが自殺してしまう。精神的に落ち込んでいた「青の時代」は、薄暗い青系の色彩で乞食、盲人、娼婦などを主題とし、陰鬱な作風が特徴である。
この時代の象徴としてよく挙げられのは3作。特に亡くなった親友を描いた《人生》が最高傑作と呼ばれている。
▍1904年〜1906年:「ばら色の時代」
ピカソは「洗濯船」と呼ばれていたモンマルトルの建物にアトリエを構え、恋人フェルナンド・オリヴィエと住み始める。この頃から赤やオレンジなどの明るい色彩が増え、サーカス団や曲芸師などが描かれているのが「ばら色の時代」の特徴。
代表作として挙げられるのが、巡回するサーカス芸人の一家を描いた《サルタンバンクの家族》や《パイプを持つ少年》など。
《サルタンバンクの家族》(1905年)
画
《パイプを持つ少年》(1905年)
画像引用:http://art-picasso.com/
像引用:http://art-picasso.com/
《アヴィニョンの娘たち》(1907年)
画像引用:http://art-picasso.com/
▍1909年〜1919年:「キュビスムの時代」
「キュビスム」とは、複数の視点から対象を把握し一枚の画面に構成する技法のこと。これは従来の西洋絵画で活用されていた伝統的な遠近法を覆す革新的な表現だった。
また、「キュビスムの時代」は「分析的キュビスム」(1909〜1912年)と「総合的キュビスム」(1912〜1919年)に分けて議論される。分析的キュビスムは円筒、球、円錐などを使って明暗や遠近を表現し、対象を分析する。この時期それまでに描かれていた風景画はピカソ作品にほとんど登場しなくなり、人物や静物が対象となっていった。
一方、総合的キュビスムは写真や新聞の切り抜き、木片、ロープなどが画面に直接貼り付けられる。こうした技法をコラージュと呼び、美術史においてコラージュを技法として確立したのが、ピカソの《藤椅子のある静物》である。
《籐椅子のある静物》(1912年)
画像引用:http://art-picasso.com/
この時代、1911年にフェルナンド・オリヴィエと別れたピカソは、翌年にモンパルナスへと移る。新たな恋人エヴァ・グールと付き合っていたが、3年後に彼女は病気で亡くなってしまった。
▍1917年〜1925年:「新古典主義の時代」
仕事でイタリア・ローマを訪れた際、ルネサンスやバロック様式の都市や遺跡などに感銘を受ける。キュビスムと並行しながら、古典的で写実的な量感のある人物画を描くことを好んでいたのが「新古典主義の時代」。
バレエ団を通じて知り合った妻のオルガ・コクローヴァと息子パウロをモデルに描いた母子像と《海辺を走る二人の女》などが、この時代では有名な作品。
《母と子》(1921年)
画像引用:http://art-picasso.com/
《海辺を走る二人の女》(1922年)
画像引用:http://art-picasso.com/
▍1925年〜1936年:「シュルレアリスムの時代」
この頃フランスで起こった芸術運動「シュルレアリスム」に影響を受けていたピカソは、非現実的な形態のイメージで人物を描き、独自の世界観を広げる。他にシュルレアリスムを代表するアーティストとして、サルバドール・ダリが挙げられる。
また、この時期に妻オルガとの仲も冷め、オルガへの不満が膨らんでいた時期に描かれたと言われているのが《三人の踊り子(ダンス)》である。また、当時の愛人マリー・テレーズをモデルにした《夢》もよく知られた作品。
《夢》(1932年)
画像引用:http://art-picasso.com/
▍1937年:《ゲルニカ》と《泣く女》
《ゲルニカ》は1937年スペイン内戦時、ドイツ軍がスペインのゲルニカを空爆したことがきっかけで生まれた作品。縦3.5m・横7.8mのキャンバスに戦争の恐怖や無差別爆撃の残酷さなどを表現している。1939年、ニューヨーク近代美術館で開催された大回顧展でも展示され、美術史において最も力強い反戦絵画のシンボルとして評価されている名作だ。
《ゲルニカ》(1937年)
画像引用:http://art-picasso.com/
妻・オルガとの離婚が進まず、愛人マリー・テレーズの他にドラ・マールという女性と関係を持ったピカソは、ドラ・マールをモデルに代表作の一つ《泣く女》を描いた。また、写真家であったドラ・マールは《ゲルニカ》の製作過程を写真に収めている。
ピカソはそれから「泣く女」をテーマに連作で100枚以上の作品を制作し、《泣く女》(1937年)はロンドンのテート・モダン美術館に所蔵されている。
《泣く女》(1937年)
画像引用:http://art-picasso.com/
教科書の「学術研究」をみてみよう
- Q1:ピカソはなぜ「夢」という作品を描いたのでしょう?
- Q2:キュビスムの表現にとは?
- Q3:ピカソの言葉(P36「牡牛の頭部」)を読み、ピカソにとっての表現とは?
美術表現の多様性
美術の表現は、単に本物のように描くことだけが上手いというわけではなく、様々なよさがあることに改めて気づいたのではないでしょうか。
美術作品には作者の感じ方や表現に対する考え方が込められており、自分の表現を追求することの大切さに気づいてもらえてのではないでしょうか。